ブリア・サヴァランかく語りき


10



「あの日は映画がつまんなくてさ。ボクも見てたんだよね、ホントにあるんだー、なんてさ」
「僕は見てなかったな」
「そうなんだ?さすが一乗寺だよね」
何なんだ、その「さすが」って。
「とにかく、それで色々と合点がいって、給食の時に大輔くんがしつこくコレ、何味だ?とか聞いてきたりさ、伊織くんが差し入れをさ、これはすっごく美味しいからまぁありがたいんだけど」
伊織君のお母さんの料理の評判は僕も聞いている。
「つまり、高石は味覚異常でも何でもない、と」
「うーん。ある意味異常だと思うよ」
「なのに、心配する皆を・・」
「だから。気がついたら話が大きくなってるんだもん。絶対怒られるじゃない。これは皆のお陰で治りました、てのがベストかなあって。ね?」
うまい考えだろうと言いたげに、高石君が僕の顔を覗き込む。
「君って・・」
僕は脱力して座り心地の悪い椅子に沈み込んだ。
「つい気を使っちゃうんだよね」
「・・違うだろ」
「あはは。でもさ、一乗寺は知っててボクに付き合ってくれてた訳でしょ?どうしてなの?」
「どうして、って」
「さっきもあんなに怒ってたしさ。心配してくれてた?あ、でも黙認してた訳だしね。ボクなんてどうなってもよかった?」
「僕はただ」
肉まんの借りを、だなんて嘘だ。
「面白かった?味覚異常で好物を禁止されてる子がコソコソさぁ」
「面白がってなんているもんか。僕はただ・・」
「可哀相に思ってくれてた?やさしいね、一乗寺は」
小さなトゲが僕の胸を刺す。聞こえなかったかのように僕はこの話題を終わらせようと。
「本宮達の心配は杞憂に終わった訳だ。結果良ければ全て良し、だよ」
高石君がよくやるように、肩を竦めてみせる。
「あはは。そうだよね。」
高石君は朗らかに笑って僕は少しほっとする。
「一乗寺の好きな食べ物って何?」
「え?」
話の矛先が変わったのはいいけれど。
「ハンバーグ、って事になってるよね」
「なっている、って」
「うん、インタビューでそう答えてたでしょ」
「あ・・」
以前雑誌かTVで行なわれたインタビューでそんな項目もあったかもしれない。
「あ・・あれは、母が適当にっ」
「あはは、顔が赤いよ、一乗寺」
「とにかく、僕が言ったんじゃない!」
あの頃の僕の食べ物の好みがどうだったかなんて憶えちゃいないけれど、おそらくは特別な事なんてしていない、普通の家庭だと謙遜あるいは演出するために無意識に選ばれた小道具のひとつ。
「ふぅん、そうなんだ。天才にしちゃ随分子供っぽいよね、なんてさ、京さんなんて親近感感じちゃってたけど?」
「勘弁してくれよ、当時の話は・・」
そりゃ、顔も赤いだろう。余り憶えていないのは僕だけで、他の人達にはまだ記憶に新しいのだ、三日天下だった天才少年の面影は。あれは僕ではなかったなんて言い訳をしたって、恥ずかしい事には変わりはない。
「ゴメンゴメン。だからさ、ホントは何なのさ?お礼に色々案内っていうか。連れて行きたいな、なんて」
「お礼って」
高石君の青い目が面白がっているように僕を見て。
「ボクの嗜好に付き合ってくれたお礼だよ。和食?フレンチ?イタリアン?中華?エスニック?」
矢継ぎ早に言われてそれが料理の種類だと理解するのに数秒を要してしまった。
「一乗寺?お〜い」
高石君の手が右から左へ目の前を往復する。我に返って、急いで言葉を探す。
「そんな。いいよ、無理だろ、子供同士じゃ」
「子供同士じゃないよ、残念だけど」
平然と高石君が言う。
「だったら尚のこと、高石のお母さんに悪いじゃないか」
「お母さんでもないよ」
だったら誰なんだよ、お父さん?と聞こうとして躊躇する。高石君の家族の事はあまり触れてはいけない気がして。
「何て言ったらいいんだろうな。あのね、ボクのお母さんの昔からの友人でさ」
「・・うん」
「グルメ雑誌っていうの?ライターさんでね、小さい頃から可愛がってもらってたんだ」
まるでどこかで聞いた事のあるような話。僕は何度か瞬きをする。
「その人、独身でさ。子供が珍しかったのもあるだろうけど。美味しいお店みつけたからってよく母さんとボクを連れ出してくれて」
タケル君も大きくなった事だし、デートのセッティングはまかせなよね〜なんて言われてるんだよね、と高石君はにっこり笑った。
「・・ちょっと待てよ」
僕はぐるぐる回る頭を支え直す。
「それって。小さい時からって」
「その頃は三軒茶屋に住んでたんだけどね。その前は例の光が丘」
そんな事聞いてるんじゃない。
恐る恐る僕は言ってみる。
「そんな環境だと、その。味にうるさくなったんじゃないのか?」
本宮はなんて言っていた?あれでもしグルメだったりしたら、と。
「まあね、給食なんかはちょっとツライかな。ある水準以下はみんな同じっていうか」
・・その嫌味の塊が今目の前で微笑んでる訳だ。
「高石、君って・・」
「ね、彼女なら君の事もきっと気に入ると思うんだ」
ただね、すぐジャ○ーズ事務所に履歴書送ってみない、とか言うけど気にしないでね、等と言う言葉を聞き流し。
「・・もう出よう」
僕はトレイを持って立ち上がる。
「あ、待ってよ、一乗寺!」
後でガサガサ音がする。
「何か気に障る事言ったかな、ボク」
並んでゴミを突っ込んで。すごい量だな、いくら再生資源を使ってるなんて書いてあったって。
「怒ってなんかいない。むしろ」
「むしろ、何?」
「早めに君の正体がわかってよかったと思う」
ちらっと伺った高石君の口はぽっかり空いていた。僕は心の中の握りこぶしに力を込める。
「行こう、高石」
ここは僕の町だ。僕は手を差し出す。高石君は少し困ったような顔をして指の間接二つ分を僕に委ねる。くすぐったいのと恥ずかしいのを堪えて僕は歩き出す。随分長く話し込んでいたらしい、外はもう薄暗かった。



目を上げるとガラス張りの店舗から誘うような明かり。たまにお使いに行くスーパーの前で僕は足を止める。訝しむように繋いでいた手に力を入れた高石君に、待っててくれないかと言い置いて、丁度開いた自動ドアの隙間から店内へ入る。

『君がどんな物を食べているか教えてくれれば、君がどんな人物か当ててみせよう』というような事を言った人物が昔いたらしい。僕はその言葉が階級や貧富の差を表わすものだと思っていた。けれど、食物は独力で手に入れられるものではなく、購うという形をとるにしても、誰かによって与えられる物なんだ。
僕は、全ての人を蔑んでひとりだけで生きているような気でいた頃も、犯した罪の為に全てに値しないと思い込んでいた頃も、誰かに常に与えられ続けてきた。等価な、むしろより以上の物を返さなければという観念は一体いつから僕の頭に棲みついていたのだろう。振り向くとガラスの向こうに高石君が頭の後で手を組んで手持ち無沙汰に立っている。僕は深呼吸して目指す売場へと向かう。



「お待たせ」
それはすぐに見つかって、今スーパーの袋に包まれて高石君の顔の横で揺れている。
「何、これ。何買ったの?」
「あげるよ、肉まんのお礼だ」
「肉まん?ああ、デジタマモンの。いいよ、そんな」
訝しげな顔の高石君の手に袋を押しつける。
「いいから。受け取れよ」
「うん、ありがと」
とりあえずの笑顔を浮かべて、高石君が言った。
「一乗寺から何か貰うのって、前のクリスマスのカード以来じゃない?」
「あれは母が用意したものだから」
「じゃ、初めてだよね。見てもいい?」
スーパーの袋が立てるガサガサという音がやけに耳につく。
「・・うん」
本当は帰ってから見てくれと言うつもりだった。でもそれはさすがに不自然だ。ビニール袋に手を突っ込んでむき出しのままのカラフルな袋を取り出す高石君の手を眺める。
「お菓子?」
ピ、と袋を破く気配がして、僕は慌てて高石君を止める。
「今は食べられないよ、家で作ってよ」
「え?作るって。これ。」
袋と僕の顔を交互に見て、高石君が呟く。
「・・ねるねるねるね?」
僕は高石君の顔を見ないようにしながら頷く。変な奴だと思われて当たり前だ。このお菓子を夢で君に貰ったからなんていう、所謂電波系な説明を始める前に逃げてしまおうと立ち位置を調整した僕の肩を高石君が掴んで揺さぶる。
「すごいや!偶然?な訳ないよね、誰に聞いたの、ボクがこれスキだって」
「・・はあ?」
誰なんだ、こいつがグルメだなんて、それともこれをマズイと言った本宮の舌がおかしいのか?
「ひょっとして、一乗寺も仲間?このトシでこれスキってちょっと恥ずかしいんだよね、こないだ幼稚園のイトコにまでバカにされちゃってさあ」
高石君が興奮ぎみに続ける。僕は曖昧に言葉を濁して、遅くなるから、と。
「あ、ゴメン、ここまででいいよ。今日はありがと」
グルメなんだか味覚異常なんだか、とにかく悪ふざけが趣味な事だけは確実な彼はにっこり笑って。
「あ!大輔くんだ!」
車の行き交う通りの向こうを指差した。
「え?」
「ほら、あそこ!」
高石君が僕の頭をぐい、と捻る。それらしき人物は見当たらない。
「どこにも・・?」
何か暖かいものを押し当てられて、思わず頬を押さえて振り向くと、間近に高石君の青い目。
「な・・」
「何って。ともだちのしるしだよ」
これがメールかチャットなら、語尾に小文字のVが並んでいそうな声で高石君が言った。
「友達のしるし?」
「そう、デジタルワールド方式の」
「・・なんだ」
ゴシゴシ頬を擦って僕は安堵の息を吐く。なるほどね、そういう訳か。
「なんだ、って。驚いたんじゃなかったの?」
「そういう事だったらね。そんなのが向こうで流行ってたんだ。道理で本宮も・・」
「大輔くんが!?」
高石君の声は、通行人が振り返る程大きかった。
「で、その本宮はどこに・・」
「ああ、うん。人違いだったみたい」
「何だよ」
どうしてほっとしたのかわからないまま僕は何か言いたげな高石君に別れを告げる。
「あ、今度メトロポリタン来るんだって」
「ピカソだっけ」
「上手過ぎて、子供みたいな絵を描きたがった人の絵なんか見てどうしろって言うの、って感じだけどね」
「あはは。君にはミロなんか向いてるんじゃないか?」
「落穂拾い?」
「それはミレー」
「・・あれー?なんちゃって」
外したな、という表情の高石君に追い討ちをかけるため、僕は殊更真面目に続ける。
「・・あ、クレーだった、僕の言いたかったのは。幼稚園の子が描いたみたいな・・」
僕は空中に簡単な線画を描く。丸、三角、四角。目を閉じて微笑む天使。
「なんだか・・しり取りに頭取りだね」
「・・みんな申し合わせたみたいに似たような名前だから」
「あはは、モネとマネって兄弟?ってね」
「名字だし・・」
「・・・・。」
やっぱり外したと自覚したのか、少し居心地悪そうに黙ったあと、また今度メールするね、と高石君が手を振る。 僕は勝ったような気がして、なんだか無性にうれしくて、笑顔で手を振り返す。

夕闇に小さくなる白い帽子、パウル・クレーの天使を思い浮べる。似ても似つかない彼のパートナー。宗教的な意味合いは僕ら人間が押しつけたものだとはいえ、その姿は神々しくて一時期の僕は畏怖の念すら覚えていたものだった。僕は彼に裁いて欲しかったんだろうか。今はもう鮮烈さを失いつつある傷を擦られる痛みを思い出そうと、首の後ろに触れてみる。時間は戻らない。過去は変えられない、けれど自然に薄れていってしまうのだ。僕はまた存在意義を失いつつある。償いも罪も消えないが、次第に過去へと押しやられ。










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