雨の降る場所





2



ボクの肩から外れた手が床に落ちた。大きく歪められた表情。喉の奥から搾り出される声。

「あの場では、言葉にしちゃいけないってわかってた。辛いよ……心が引き裂かれるようだ」

声は震えてる。頬が光ってるのは雨のせいじゃない。俯いたその頬に手を添わせると、びくっと反応が返って来る。どうしよう。この手をどうしたら……。引っ込めればいいんだってわかってる。なのに体が動かない。伏せられてた睫毛に小さな雫。今自分がどうしたいのか、ボクは突然悟ってしまった。なのに、即座にその感情を否定する。今は気持ちが揺らいじゃってるから。不安定な只中に居るから。ボクには、そのまま自分を納得させる言い訳を、百でも思い浮かべる事は可能だったろうけど。視線がかち合って数秒。ぐらぐらする感情の揺らぎは、ボクを押し留める力をもはや持たない。




痺れたような感覚で、どこか遠くからその光景を、ボクはぼんやり見ていた。吃驚したような表情が徐々に近付いて来るのを、まるで第三者からの視点で見ているかのように。大きく目が見開かれるのを間近に見て、ああ、そうか、ボクの方が近付いてるんだと、どこか冷静な頭で思ってた。ボクは、一乗寺くんの睫毛についた水滴を、躊躇わず指で拭い取る。そのまま瞼に唇を押し付けた。薄い皮膚の下で震えるような眼球の動き。君を強く抱きしめて体を密着させて、錯綜する感情さえそのままに。背中に回した手に万感の思いを込めて、冷えた体ボクが温めてあげるから。手のひらでなで上げて、さらに抱く腕に力を入れた。頬に当たるしなやかな髪の感触。そっと背中に回された君の腕の動き、途端に沸きあがる歓喜。ボクは、どうしたい?自分が良くわからないよ。ただ、冷たい体同士でも、こうしていたらすこしは熱を感じられるでしょ?だからほんのちょっとだけ。 しばらくこのままで。





目が醒めたら、ベッドの中だった。自分の状況が掴めない、訳がわからないまま腕で支えて半身起こした時、ぎょっとした。ベッドの足元に一乗寺くんがうつ伏せて寝ているのに気付いて、一瞬意識が飛びそうになった。一気に汗が噴き出して来る。眠ってるその肩をそっと揺さぶる。緩慢な動きながら、君は眠たげに瞼を擦ってボクを見て。

「寝ちゃった君をベッドまで運んで、それで.……。今何時だろ?」
「11時回っちゃってる……」
「えっ!?」

ボクは目覚まし時計を掴んでいる手に力を込めた。寝てるボクをベッドまでだって?迂闊だった。なんて情けない醜態。ベッドに突っ伏してしまいたい衝動をなんとか堪え、それでも大事なことに思い至って、ボクはことさら表情を取り繕い、何気ない風を装って言う。

「お母さん心配してるんじゃない?電話しとくといいよ」
「うん。皆で集まるって言っておいたから大丈夫だとは思うけど……。大輔の家にでも泊まると思ってるんじゃないかな」

それがまさか、ずぶ濡れの体を簡単に拭っただけで、ベッドの片隅に寄り掛かっただけのうたた寝をさせちゃってたなんて、君のお母さん知ったら驚くだろうな。ボクはリビングから電話の子機を持ってきて、床に座り込んでる一乗寺くんに手渡した。君はありがとうってそれを受け取って、手早く自宅の番号をプッシュする。ボクは素知らぬ顔であさっての方を見ながら、その実しっかり聞き耳を立ててた。いつもよりほんの少しトーン上げて話す君の声を。

「うん、それで、雨に降られちゃって……これから帰るから」

そうか、帰っちゃうんだ……。それは当たり前のことなんだけど、ボクは一抹の寂しさを抱えていた。もし、ここが大輔くん家だったら。ボクが大輔くんだったら、君は一晩ここで過ごすんだろうな。さんざふざけてじゃれあって。おなか痛くなるくらい笑って。君とボクとの接点って……いったいなんだろう、何があるだろう、引き止める何かを僕は持たない。だから、ここで君に帰らないで欲しいなんて、僕にはとてもじゃないけど言えない。そう考えたら、なんだか胸が苦しくなった。どうしてボクじゃ駄目なんだろう。

「あのさ。君さえ良かったら……」

言ってしまってから後悔した。一乗寺くんが振り返ってボクを見るから、頬が熱くなるのが自分でも分かる。やっぱり駄目かな?

「もう夜も遅いし、危ないから。最近物騒だし、ね?嫌じゃなかったら泊まっていくといいよ」

下手なナンパじゃないんだから。なんでこんな声が上ずるんだろ?君がどんな反応するのかが、ものすごく気掛かり。微笑んでボクに頷いてみせる。それっていいって事?しばらく話した後で、君はボクに向き直って電話の子機を差し出した。耳にかけてた髪を払う仕草に、つい目が吸い寄せられてしまう。

「電話、ありがとう」
「お母さんなんて?」
「最近おかしな事件多いから、ご厄介になりなさいって。それより、突然だけど……いいのかな」
「えっ!?もちろんだよっ。母さん帰ってくるの遅いから!!」

ボク達は黙ったまま向かい合って。それでしばらく妙な間があって。ほんと、ナンパだよ、これじゃ。どうしてこういう時って、気の利いた台詞とかひとつも浮かばないんだろうな。

「ほんとにいいの?無理してるんじゃないのか」
「……。なんで無理なんかしなきゃならないんだよ。それより、なにか食べる?」




台所に立って、いつもやってる食事の準備を始めるころには、ボクもなんとかペースを取り戻してきた。テーブルにお皿を並べて、二人でおままごとみたいな食事風景。

「いつも自分で作ってるんだ?」
「母さんが作り置きしてくれてる時もあるけど今回は、ね。こんな簡単な物しか作れないけど」
「ううん、美味しいよ」

食べてくれる人が居るのって作る張り合いになるんだって、初めて知った。こんな時間に、暖かな空間で。

「……キャベツちゃんと切れてなかった」
「あはは!」

さっきまでの気詰まりを、抱えきれない憂鬱を、今ではすっかり忘れてボク達は笑った。数時間前まであれほど荒れ狂っていた感情は今や穏やかだった。こうしていればボク達は、パートナーを失った不安を拭い去ることが可能なんじゃないかって思えるほどに。










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