天使も踏むをおそれるところ





9


「タケルくん」
名前を呼ばれて、反射的に帽子をとる。頭から湯気が出てるんだろうな、なんて思いながら黄色っぽい電球が唯一の光源みたいな天井の高い薄暗い廊下を数歩進んだ。
「彼が、お話した・・」
この子は暑さなんか感じないんだろうか、そんな筈ないか、うっとおしそうに耳に髪を、ちらりと覗いた襟足は少し汗ばんでるように。
「タケルくん?」
「え?あ、ハイ、よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げて、その田舎の町医者の投薬口のような小窓に目をやると、入歯が合ってるんだろうかなんて余計な心配しちゃうようなお爺さんが、こっちを見もせずに立ち上がった所だった。なんで立ち上がったのがわかったかっていうと、不機嫌そうな顔が消えてよれよれのベルトをしたお腹にスライドしたからで。
「すみません、それじゃ」
一乗寺くんが窓に向かって会釈する。窓の横の低い引き戸から出てきた小柄な人影に、ボクもまた頭を下げる。相変わらずこっちを見ずにお爺さんはノロノロ歩き始め、ボクらはお爺さんを追い越さないように、更にノロノロと後を追った。一乗寺くんが『懇意に』して貰ったってこの人なのかな、だとしたら随分余所余所しい懇意もあったものだ。妙齢のお姉さんを想像してたボク達は・・きっと皆そうだったと思う、なんとなく。拍子抜けした訳じゃないけど。薄暗い廊下を一度曲がると、また下り階段があって、さっきと同じでこぼこした擦りガラスのはまった引き戸。何か模様があったらしく、うっすら赤や青の筋が見える。お爺さんが振り向いて、大きな、これぞ鍵って感じの、RPGのアイテムでしかお目にかかったことのないようなのを一乗寺くんに渡すと、一言も喋らず引き返して行く。

「ここ、五時までだから」
がちゃがちゃと大きな音がして、鍵が開く。
「貸し出しは出来ないけど、コピー機があるから。あ、もしPCとスキャナーがあるんだったら。デジカメでもいいけど。君、持って来た?」
無言で引っ込んでしまったお爺さんに代わって、一乗寺くんが早口に、でもボクは答えるどころではなく、引き戸の向こう側の光景に目を奪われていた。
「・・すごい」
陰気な狭苦しい廊下と打って変わって、高い天井、高い窓、それから整然と並んだ大人でも脚立がないと届かないような本棚の列。資料室だと言ってたから、さほどの広さでもないのだろうけど。
「大型図書は向こうだよ」
笑いの混じった一乗寺くんの声が背後から聞こえて、ボクは自分がふらふら歩いてたって事に気がついた。日にやけて茶色っぽくなったカーテンが明るくて、部屋のほとんどは陰になってる。いかめしい色の背表紙がずらりと、確かにボクの知ってる図書館なんてここに比べたらお子さまだ。イヤな音をたてて戸が閉まる。ボクは本棚の林をさまよいながら、大半が自分に読めない言語で書かれてる刻印みたいな文字を指で辿ってみたりする。たまに日本語があると、学校史だったり、たいしたもんだよ、さすがお坊ちゃんお嬢ちゃんの。
「荷物置いたら?」
何も驚く事ないじゃないか、だってここにはボクと一乗寺くんしかいないんだから。けど、窓を背にして、白いペンキが荒く塗ってある蛇腹のヒーターにもたれてる姿、カーテン越しの光がモノトーンを一段階暗くみせていて、真昼に幽霊を見たらこんな感じじゃないかって。陰になった口元が釣り上がって、どうやら笑ってるみたいだ。ボクは何か言わなきゃ、と口を開いてまた閉じる。
「そろそろ始めた方がいいんじゃないかな」
ほとんど白く見える髪がふわりと揺れて移動を開始する。ボクが今日迄できるだけ考えないように、恐れ、待ちわびていた気まずい空間。この場所にそぐわない、普通の教室にあるようなパイプ机にパイプ椅子がふたつ引き出される。ねっとりした日光が冷房が効いてるはずの部屋を蜂蜜色に染めていて、その色を見てるだけで手のひらが汗ばんでくる。
「ねえ、あの文章。あのメールの。何の引用なの?」
パイプ椅子を引くイヤな音。ボクの唐突な質問に、彼の顔に浮かんでいた笑みが消える。
「小説だよ。ホーソンの」
「・・知らない」
「『緋文字』だったかな、有名なのは」
ボクたちは向かい合わせに座る。
「一乗寺くんは理系じゃなかったの?」
「え?」
「ほら、パソコンとか得意じゃない」
「・・どうだったんだろう」
独り言のように一乗寺くんが呟く。あ、そうか、記憶がどうのって。
「あはは」
頭がかゆいフリ。ルーズリーフだのペンケースだのを取り出して並べる。
「かなり調べた?」
「うーん。なんか気が散っちゃって」
「君らしくもない」
立ち上がって壁際の本棚へ向かう後姿に、キミがボクの何を知ってるのさ、って口の中で呟く。木製の脚立に登る危なっかしい脚。一冊ずつ確かめるように、大きな本の背表紙を辿る指。
「歴史順に見てみる?ロマネスクあたりから」
「え?ああ、何でも」
「この辺りは退屈かもしれないけど。降ろすからちょっと来てくれないか?」
指示されるままに脚立を押さえて、もちろん一乗寺くんがバランスを崩してボクの腕に倒れこむだなんて事は起こる筈もなく、安手のドラマみたいな発想に自分が恥ずかしくなっただけ。何キロもありそうな画集を次々と受け取って、一体ボクは何を、たかだか小学校の夏休みの自由課題、確かにこれが最後だからと気合いを入れてはいたんだけど。そして一乗寺くんは一体どういうつもりなんだろう。古傷とはいえ、触れて欲しくないんだろうに。ただの親切?もう全然気にしてない?そろそろと降りてくる制服の脚。そう言えば一乗寺くんの動きは、どれもどことなくぎこちない。まるで、他人の体に入り込んでしまって途方に暮れているような。何だっけ、そうだ、フランケンシュタイン。みんなこれが怪物の名だと思ってるけど、ホントは怪物を作った博士の名前なんだ。怪物は名前すら貰えなかったんだよね。
「タケル君?」
一乗寺くんは、もう机に積み上げた本を広げていて。
「あ、ごめ・・」
手を貸すつもりだったのに。
「19世紀は外した。ちゃんとした天使はカトリックの専売特許だからね」
「うん」
ボクは頷くしかなく。
「ここ、座りなよ」
示された椅子を引いてボクは観念して一乗寺くんの隣に座る。この間だってヒカリちゃんとこうして頭を寄せあって、一冊の本を眺めてた。普通だったら、女の子とこうしている方がずっとドキドキするだろうに。きっとボクは普通じゃない。もしかしたらボクとヒカリちゃんの間柄が普通じゃないのかな、どうせボクはおせっかい虫だよ。











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