天使も踏むをおそれるところ





10


「このあたりは壁画ばかりだよね、君の思ってる絵とは違うんじゃないかな、どう?」
「え?ああ、何?・・ピラミッド?」
赤茶けた写真に置かれた白い指先。
「あはは、まさか。当たらずしも遠からずだけど」
「は?」

ピラミッドって言ったのは、半分はふざけて、なんだ。その壁画の無表情に見開かれた目を見てたら、頭の中でツタンカーメンが踊りだしたものだから。

「エジプトはローマ帝国の支配下にあって、双方に影響しあった筈だから」
「あ、そうなんだ」
「僕達はつい、時代区分で歴史を見てしまいがちだけど。例えば、明治生まれの人っていっても、ほとんどを江戸末期に過ごした人もいれば、昭和になってから成人した人もいる。全然違うだろ?でも後世の人から見れば・・。」
不意に言葉が途切れる。
「一乗寺くん?」

やっちゃった、って感じの困ったような顔。殊勝さ加減に雲泥の差があるけど、この表情には見覚えがある。コード進行がどうのこうの、アレンジがどうのとしゃべりまくった挙げ句、周りの目線が全く自分に向いてない事に気付いた時の。

「すまない、関係なかったね」
「ううん、続けてよ。いいね、それ。序文に使えそう」

まあ、あの人にはこんな風には言わないけどね、フォローする前にオレの話を聞けって怒るんだもん。

「この辺りはもういい?中世まで飛ぶ?」

返事を待たずに、バタンと大きな音、重い本が閉じられて、風圧でホコリが鼻を直撃する。

「中世後期までは・・芸術家不在の時代だ。」

捲りにくそうに頁を繰りながら、早口で続ける。

「へ?」
「誰か知ってる?名前が言えるような」
「あーーーー。ダ・ビンチとか?」
「それはルネッサンスだよ」

笑う気配。こいつ、けっこう性格悪いかもしれない。

「芸術は神を讃えるためのもので・・大寺院なんて、何十年もかかって建てられたんだけど、建築家や彫刻家の名前はほとんど残ってないんだ」
「あれでしょ、東京タワーは誰が建てたかって」
「え?」

記憶を探ってる顔。いいな、こういうのも、なんてちょっと見とれてみたり。

「答えは大工さん、だよ」
「・・あはは」

また外したかな。ばたばたとページをめくると、薄気味悪い、顔色の悪い一群の絵。

「ジォットー。ルネッサンスの先駆けって言われてる」
「・・なるほどね、名前あるんだ」
「人間的な表情をもった人物が描かれてて・・」

・・・そうかなあ。あんまり変わりないように見えるんだけど。

「それから、遠近法だね。このあたりから飛躍的に技法が・・」
「へー」

何枚か先を覗いてみると、確かに同じ人類が?ってぐらい上手な絵が見えた。

「ほんとだ」
「だろ?」
「んー。面白いんだけど・・そろそろ本題行こうよ」
「あ・・」

少し染まった頬。ボクはここに美術史の講義を受けに来たんじゃないんだけど、おしゃべりな一乗寺くんなんて滅多に見られるものじゃないし。

「人間的な表情、かあ」

所々剥げた壁画、トランプの絵柄みたいに目を見開いた人種もわからないぐらい簡略化された人物たち。

「どれが天使だかわかんないね」
「後光があるのは聖人も同じだからね」
「ここはパス!」
「威厳があっていいと思うけど」

少し名残惜し気に重い表紙がバタンと音を立てる。

「ボクが探してるのは、戦う天使なんだけどさ」
「天使は本来戦うものじゃない」
「その辺りはボクだって調べたよ。受胎告知だとかなんだとか。本来はメッセンジャーなわけでしょ」
「天使がやたらに現われるのはキリスト生誕までだよ。つまり、旧約だから、キリスト教じゃなくて、ユダヤ教」
「へえ。一緒じゃないの?」
「イスラム教も、旧約を聖典にしてるよ。マホメットの先祖がユダヤの王さまだってことで」
「なにそれ。なんだか頭がぐるぐるしてきたよ」

ボクは積み重なって丁度枕の高さになった本に頭を乗せて呻いた。

「何千年も戦争してるくらいだからね」
「笑い事じゃないよ」
「すまない、その」

何か言いたげに、それから訪れる沈黙。頭にカーテン越しの日光。やだな、晴れてきたんだろうか。

「現実の事はいいんだよ、だってさ、データなんて言ったって要するに想像の産物なわけでさ」
「信じてないのか?タケル君は」

少し咎めるような語調。

「信じるって何?キリスト教?」
「そうじゃなくて」
「デジモンの存在?もちろん信じてるよ?」
「ちがう」
「じゃ、何なのさ」
「善とか。光とか。そういったものの力だよ」
「何、それ。宗教の勧誘?」
「そういうんじゃ・・」

一乗寺くんはまた黙る。次の巻の表紙が開かれ、薄紙をめくるとさっきよりずっと鮮やかな色彩が目に入ってきた。

「だいぶ見やすくなってきたんじゃない?」

お菓子のパッケージの太ったアカンボの次に見慣れた美形の天使達。青や赤のグラデーションの大きな翼。でも余り活動的とは言えないんだ。合唱でもするみたいに整然と並んで澄ましてる。

「ルネッサンス手前だな、まだ俗化する前の」
「あは、あんまり気に入ってる口振りじゃないね?」
「僕の好みなんか」

関係ないだろ、と口の中で。観念的な話に乗ってあげなかったから拗ねてるのかな、わかったってば、キミが物知りハカセだって事ぐらい。そういうの、学校なんかじゃあんまり受けよくないよね、ゲームやスポーツならまだしも皆興味ない事に関してだし。だから余計誰かに話したくなっちゃうってのもすごくよくわかるよ。

「さっき言ってた善の力って」
「うん」
「実際の話なの?それとも」

一乗寺くんが顔を上げてボクを見る。値踏みしてるような目、別にいいけどさ。

「僕はずっとデータの話をしてるつもりだった」
「データ?」
「言ってただろ、何かがまず存在してそこから作りだされたって」
「ああ、うん。大抵は動物だよね、たまたまボクたちのは想像上の生物だったから」
「たまたまだなんて」

言い淀んで唇を噛む。一瞬白くなって戻ってゆく薄い赤を眺める。なんだかいい気分。話してる内容なんてどうでもいい。ボクがつっかかるのは、ただ会話を引き延ばしてるだけ。もしかしたら、こういう位置でなら。ボク達だって仲良くなれるかもなんてさ。

「他にどんな意味があるっていうのさ?デジモンの世界に宗教なんてあったとしたって、それって」

忙しく頁を繰る指が止まる。正確にはデータという訳じゃないんだろうけど、こうして蓄積されていった善や悪の概念は、他の想像上の生物と同じ筈だ。具現化した善が悪を駆逐するとしても、ただそんな風に決まっているからっていうだけなんだ。ゲームなんだから、プレイヤーを勝たせなきゃね。

「だって君は。誇らしいと思ってるんだろ?だから」

覗き込んだページは青と茶の重苦しい色調。剣を構え、鎧をつけた騎士がモンスターを押さえ付けている。

「こういう事じゃなかったのか、あれは」

声音は穏やかだけど、画集の頁を押さえた指が震えている。

「こういう事って」

騎士を見上げるモンスターは醜悪な老人のようだ。

「戦う天使、だよ」

前髪に隠れて、一乗寺くんの顔は見えない。ボクは目線を画集へと移す。

『悪魔を抑える大天使ミカエル      グィド・レニ』

一乗寺からのメールにあった名前だ。

「見せたかったのはこの絵なの?」

返事はない。

「エンジェモンとは似てないけど・・」
「そんな話をしてるんじゃない!」

ボクは絵と一乗寺の顔を交互に見比べる。

「だってボクの自由研究は・・」
「君は僕を見張ってる。そうなんだろ?」
「・・・は?」










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