天使も踏むをおそれるところ





5


物語は終盤に差し掛かる。ボクがこれを借りようと思ったのは、後ろの解説文にあった『三代に渡る父子の葛藤』という言葉に拠るところが大きい。今の所それらしき箇所は見当たらない。解説でも深読みすれば、という事だから仕方ないのかもしれない。肩透かしをくらった感は否めないけど。もちろん話は面白い、確かにボイラーの事は忘れてた。始めの方にちゃんと出てきたからアンフェアじゃない。でも、高級ホテルって設定なんだからずるいといえばずるいよね。それに、この母親はひどい、ひどい人って訳じゃなく、ひどい印象を持つようにわざと描写してるみたいだ。息子は無条件に父親を愛してて、それはどんな危害を加えられても変わらない。本当にそんな事ってあるのかな、ボクにはわからない。ボクにとっての父親なんて今も昔も、といっても大して憶えてなんかないけど。お客さん、かな。赤ちゃんの頃お父さんに人見知りしてたって笑えない話、むしろお兄ちゃんだろうか、何があっても結局は。5歳の彼には『輝き』がある。人の考えている事がわかる。だから彼は表面上だけでなく両親を評価できる。でも、こんなのウソっぱちだよ、作者の願望かな。どっちにせよ、子供は親を選べない。

ノスタルジックに夕日の中で釣りなんかしてる場面で、ボクは本をお腹に伏せてため息をついた。

「どう?恐かった?」
氷とグラスが触れ合う音がして、ソファの背に手が置かれる気配。
「うん、双子の幽霊最高」
「でしょ」
仮にも文筆業なのにこれでいいんだろうか、母さんが仕事でホラー小説に言及する事なんかないだろうけど。
「時代かしらね、あたし達の頃は」
「母さんがボク位の時って何読んでたの」
「『赤毛のアン』とかね」
「ウソ」
思わず口からでてしまって頭を小突かれる。
「いた・・冗談だよ。もしかして憧れた?」
「憧れたっていうか、反面教師ね」
「反面教師?」
「アンな風にはならないぞってね」
「母さん、それ」
ダジャレ、しかも最初歩っていうか。いや、むしろオヤジ?
「さあて、いっちょやるか〜!」
「がんばってね」
ソファの陰から手を振る。ボクにはどうやら父親が二人いるらしい。それがいいんだか悪いんだかよくわからないんだけど。バタン、とドアが閉まって、ボクはひとりになる。なんだかこの先を読む気にもなれず、面白そうなTVもビデオもない。
「寝ようかな」
こんなにだらけてていいんだろうか、去年は確かに夏休みどころじゃなかったけど。
「そうだよね、去年の今頃は」
買って貰ったパソコンも全然触ってない。背中の生暖かさに耐えられなくなって立ち上がる。冷蔵庫を物色していると、どこからか微かな電子音。
「あれ?」
何だろう、もう八月一日は済んだのに。ヒカリちゃん達は普段は携帯の方にメールを送ってくる。D-ターミナルだと確実に持ち歩いている訳じゃないし。まあ携帯だって、大抵はものすごく下らないオヤジギャグをボクの親族のオヤジ達(老若男女あわせて三人もいたりする)が送り付けて来る位だけど。あ、でもこの前、京さんが送って来た留学生の「この単語で短文をつくりなさい」っていうちょっとヤバいジョークには不覚にも笑っちゃったな。

ほとんど置物のようになっていたD-ターミナルを開いて差出人を確認する。あ、そうか。彼はもちろんボクの携帯の番号も、アドレスだって知らないわけだ。あの時教えればよかったのに。思いつかなかった?多分、これきりだろうから。きっと都合がつかなかったんだろう、元天才少年の御威光なんてそんなものだったんじゃないの?ボクが、それじゃお願いするね、と言った時、彼は大輔くんの方を向いてほっとしたように笑って、大輔くんが頷いてみせた。その笑顔はボクに向けられる前に事務的な表情に変わって。何をぐずぐずしてるんだろう、吠えメールを貰った訳でもあるまいし。ボクは一乗寺くんからのメールを開く。

「『大天使の羽根のゆうに三分の一は翼から引きちぎられ、剣は血に染まって真ん中から折れていなければならない。戦いはグィードの思っているような生易しいものではない筈・・』参考になるだろうか、これは17世紀初頭頃に描かれた絵の説明だ。もっとも、こうである筈と言っているのだから、実物はもっと穏やかなのだと思う。それでも探してみる価値があると思うなら、許可は取り付けたから、予定通りで。変更があれば連絡下さい。」

もう一度最初から読み返す。おそらく何かの引用なんだろうけど。17世紀なんて言われても全然ぴんと来なくて、ただ。



『その羽根は引きちぎられ』

あの時も羽根が舞っていた。血塗れなんかじゃなかったけど。

「・・知ってたのかな?」

わからない、彼は、カイザーはデビモンの腕を材料に使っていた。エンジェモンの命がけの封印を解いた訳だ。でも、一乗寺くんは当時の記憶がないって。D-ターミナルを抱えたまま、ソファに座る。もし知っていたとして、何故今頃わざわざボクにそんな事を?何の意味もない、ただの嫌がらせでしか。
「まさか、ね」
好かれてはいないだろうとは思ってた、それは仕方ない事だ。ボクは最後まで懐疑的だったし、伊織くんの手前、形ばかりの同情を示しただけ、それに彼が憶えていないにせよ。一度闇に囚われたものは一体どうなるんだろう?記憶がないなんて本当だろうか、いつも控えめでひたむきな姿。あれが彼の真実だとすれば、何故そもそも闇に囚われるなんて羽目に。及川に暗黒の種を植えられた子供達は無作為に選ばれた訳じゃない。
『なぜ僕を?』
戦いの間、彼が固執していた言葉。
『ボクはほんの子供なんだ、たったのいつつなんだよ』
どうして「子供」なんだろう、どうしてボク達だったんだろう、どうしてボクは闇に固執するんだろう。どうしてボクは。











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