搭の上





足元の不確かで柔かな土の感触、ふと気付いて辺りを見まわすと、一面のレタス畑の中だった。レタスは丸まると育ち、葉の上の朝露は陽の光を受けて煌いていた。その有り様を見ているうちに、歩きつづけてたせいで、酷く空腹だった事を思い出し、賢は目の前のレタスに手を伸ばす。

(洗わなくても平気だろうか?)

それは一瞬の躊躇だけで、食欲に打ち負かされて青臭い塊を齧る。甘くて瑞々しい歯ごたえ。空腹に勝るご馳走なしってほんとだな。賢は、普段これほど野菜を食べる機会がなかったにもかかわらず、夢中で幾つかのレタスを齧った。



あまりに一心不乱に食べていたせいであろう。突然腕を掴まれて、呆然とそちらを見上げた。頭の中は空っぽで、言葉は出なかった。

「わたしの畑のレタスを盗んで食べるとはいい度胸ねぇ?」

声を掛けられて、思わず手の中のレタスを取り落とすほど賢は怯えた。相手の少女は、年のころは自分とさして変わらない。ただ、微笑んではいるのに、酷く冷酷な空気を纏っている。謝罪の言葉を言おうとして口を開けたものの、息が漏れただけだった。

「わたしはヒカリ。レタスを食い荒らした罰よ。しばらくわたしの身の回りの世話をして?」

すごく嫌な予感がして、賢は首を横に振りたくて堪らなかった。しかし、断れそうもない不穏な物を感じて、賢は思わず頷いてしまった。それが自分の運命を変えてしまう大きな転機になると分っていたら、賢は迷わず逃げ出していただろう。残念ながらその時の賢には、思いきりが全然足りなかった


連れてこられたのは、高い高い搭のてっぺんの小さな部屋だった。

(ここであの子と二人きり?)

いくら子供とはいえ、自分は男である。そして都合のいい事に、ヒカリは良く見ると可愛らしい顔立ちをしている。一つ所で生活を共にするという事は……。知らず顔が赤くなるのを感じて、賢は思わず頬を押さえた。

「じゃあ、ここにある繕い物お願いね。それじゃあ」

部屋の中央に堆く積まれた衣類の山を指さして、ヒカリは踵を返した。賢はその後姿を見送りかけて、ハッと我に返ってヒカリに声を掛けた。

「それじゃあ…って、君はここに住んでるんじゃないの?」

「こんな狭い所に?冗談じゃないわ。繕い終える頃に、荷物取りに来るから、サボるんじゃないわよ」

ヒカリはさっさと行ってしまった。慌てて小さな窓に駈け寄ると、搭の扉の前で、ヒカリは小さな箒に跨っている所だった。見る間にその姿は掻き消えて、賢は小さく溜め息を吐いた。ぼーっと窓の外を見ているうちに、ヒカリに言われた事を思い出して、繕い物の山を検分する。あまり得意分野ではない。しかし、今度ヒカリが来る時までに仕上がってないと、怖い事になりそうな気がする。仕方なく、テーブルに繕い物を広げて、針箱を開き賢は仕事に取り掛かった。



明るいうちに一心不乱に仕事をして、薄闇の頃気付くと窓の所に籠に入ったパンや飲物が置いてある。とにかく飢える事はないのだと安心して、賢は来る日も来る日も縫い物に精を出した。1週間ほど経った頃、ヒカリがやって来た。賢の仕上げた繕い物を透かしたり、引っくり返したり、丹念に調べて微笑した。賢は内心ほっとして、これで家へ帰してもらえると安堵の息を漏らした。しかしその後のヒカリの言葉が与えた衝撃は、賢の希望を打ち砕くに充分過ぎるほどだった。

「なかなか筋がいいじゃない。この調子でお願いね。はい!」

たくさんの衣類の山が、賢の腕の中に押し込まれた。その勢いに唖然となりかけて、賢は自分を奮い立たせて言った。

「もう罰は償ったでしょう?スーパーで買えばレタス一個150円前後だし。仮に僕が5個食べたとしても750円。繕い物、お店に頼んだら、その値段じゃ出来ませんよ?」

「そんじょそこらのレタスとは格が違うのよ!」

つわりの妊婦に売りつければ、赤んぼと引き換えられるんだからなんて、聞き捨てならない怖い台詞を吐いて、ヒカリはぶりぶり去って行った。



賢はもう繕い物に触れる気も起きず、窓の所に凭れて、外を眺めて自分の運命を呪った。ちょびっと涙が零れたけれど、プライドが邪魔して、さめざめと泣ける程にはならなかった。賢は部屋の中を見まわして何か役に立ちそうなものはないかと思案した。粗末なベッドの白いシーツ。思い立って、それを細かく裂きはじめた。端を結んで、長いロープ状にする。窓から垂らすと、遥か下の地面に届いたように見えた。大きく身を乗り出してみる。上手く行けば、その即席ロープを伝って下に降りれるかもしれない。しかし、賢は比較的賢い子供だったので、万が一の時の危険性に思い当たってしまい、どうしても窓枠に足を掛ける事が出来なかった。しばらくは果敢に挑戦して、身を乗り出し掛けては諦める。しばらくすると精神的にぐったりしてしまい、壁に背中を預けてずるずると座り込んだ。太陽は少しずつ傾いて行って、賢の頭に強い日差しを投げかけた。ふいに頭上に翳りを感じて、上を見上げた賢の目に、見た事のない人物が現れた。彼は窓枠に片足かけて、部屋の中に入り込もうとしている瞬間だった。

「君……誰?何でここに?」

咄嗟に問い掛け立ちあがって、部屋の中央まで後ずさると、その少年は軽い身のこなしで部屋の中に飛び込んで来た。

「ロープ垂れてたから。君こそ、こんな搭のてっぺんで何してるのさ」

自分がやり掛けて挫折した行為を思い出し、賢は思わず手を打った。

「助かった!登って来れたなら降りるのも平気だ。逃げられる!」

窓辺に駆け寄って、ロープを掴んでよじ登り掛けて、賢は後ろから強い力で引き止められた。

「せっかく登ってきたのに、何のおもてなしもなしかい?そりゃないよね」

その声の調子に驚き、思わず振り向いてしまってから、賢は激しく後悔した。その声の主は、典型的な王子さま風のルックスにもかかわらず、怖いほど怪しい微笑を浮かべていた。

「……それは申し訳ないと思いますけど……。僕も込み入った事情を抱えてまして。また今度出直して来て下さいませんか」

出来るだけ丁寧にそう告げて、賢は窓枠に足を掛け、勢いを付けて身を乗り出した。しかし、賢の望み通りには事は運ばなかった。後ろから抱えられて、体がふわりと宙を舞う。着地したのは、部屋の粗末なベッドの上。

「はあ?」

賢の口から、間抜けな声が漏れた。後ろの人物を振り返る。縺れるようにベッドに二人して倒れ込んで、相手の重みに賢は息が詰まった。

「ボクはタケル。実は以前から、搭の中に居る麗人が気になって仕方なかったんだ。いつも下から見ていたの気付かなかった?」

「いや……あの。仕事に追われてて。すいません」

「どうやって君の所に行けるか毎日観察していた甲斐があったよ。さあ、ボクの望みを叶えさせて?」

「えっ?あのちょっと?」

賢の抵抗は易々と封じられた。粗末なベッドは愛の褥となり、タケルは思いの丈を賢にぶつけた。大きな声を出して助けを呼んでも、周りには全く聞こえる事無く、賢は涙の内に自分の浅はかさを呪ったものの、もはや全ては遅かった。



その後、ヒカリが賢の元を訪れると、繕い物は全くの手付かず。目の前の賢は、1週間前に見た時とはどこか面差しが変わって居た。その事に気付いたものの、裁縫が死ぬほど苦手なヒカリは、なんとか賢の機嫌を取りつつ、仕事に取り掛からせることに精一杯で、賢の内心の葛藤には気付かずじまいだった。


ヒカリが帰った後、カーテンの陰に隠したロープを伝って、タケルが忍んで来る事は、近隣の村では知らないものがないほど有名。しかし、そんな事も、ヒカリは知る由もない。




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