ストレッサーズ


5


「それは。どういう・・」
「大輔くんだって分かった訳でしょ、君が誰かを・・仲間だったり男の子だったりしてもね、受け入れる可能性があるって・・痛っ!」
鈍い音を立てて、ボクの頭が床にぶつかる。
「僕は物じゃない!君がもう飽きたからって。誰かに譲られるなんて真っ平だ。」
「その方が君のためだと思うよ。」
みっともない格好のまま、こんなの大ウソだって言ってるような偽善の言葉。
「へえ、初めてだな、高石君が僕の事なんか気遣ってくれるなんて。」
笑った形に歪んだ顔。さっきまではとろとろに蕩けそうで、可愛くて。
「歯医者と同じだよ、痛いのは今だけで。」
だから、どういうわけだかこうなっちゃうんだ。
「バカにするなっ!」
一乗寺が立ち上がる。

「どこ行くのさ?」
態勢を立て直すのに一瞬間が空いてしまって、追い付いた時には一乗寺は靴と格闘してる真っ最中。
「どこでもいいだろ!」
「そう。大輔くんによろしくね。」
「もう、やめてくれ!」
一乗寺が膝に顔を埋める。靴紐を結ぼうとしていた手がだらんと垂れて。
「ごめん。もう止めないよ。ただ、こんな時間にひとりでうろつくのはどうかと思っただけで。」
「頼むから。放っておいてくれよ。」
語尾がほとんど消えてしまっている。ボクは頷いてその場に、どうせ一乗寺には見えやしないんだろうけど、ただバカみたいに突っ立っていた。

「一乗寺。」
返事はない。ため息に聞こえないように息を吐いて。
「最悪、じゃないよね、これは。まだ。」
ひと呼吸置いて返事を待つ。
「そうだね、まだ。」
突っ伏した腕の間から案外ちゃんとした声がした。
「君の最悪って何?差し支えなければ。その。ボクが知らずにそういう事態に君を・・」
一乗寺が顔を上げる。
「さっきだって不用意に君を傷つけたしね。」
泣いてるんじゃないかなんて、思い過しだったかな、一乗寺は真っすぐ前を見ていて。
「僕の最悪は。起こり得ない事だったよ。」
「起こり得ない事?」
「ずっと恐れてて。でもそれは。」
数秒の沈黙に耐えられなくなったのはボクの方。
「なんだか随分。要領を得ないんだけど。」
「ずっと恐れてたけど、もう恐くない。そんなものは最初からなかったって分かったから。」
魔法がとけて時間が動きだしたように靴紐に取り掛かる。
「よくわからな・・」
靴紐を結び終えて立ち上がって。
「僕は高石が離れていく事が一番恐かった。」
真っすぐ背筋を伸ばしてドアノブに手を掛ける。床に足が貼りついたみたいに動かない。重いドアの隙間に体を滑り込ませ、出しっぱなしだった白いシャツの裾が一瞬挟まって抜き取られ。
「一乗寺!」
慌てて母親のミュールなんかをつっかけてしまい、舌打ちする。



カッコーン、カッコーン、ってとんでもない音、こんなので走れやしない、蹴り捨ててエレベーター、表示は七階。考える間もなく階段を三段抜かしで、この分なら追い付ける、追い付いてどうしようって言うんだ、一乗寺はなんて?恐かった?ボクを失う事が?でもそれは錯覚だったと。じゃあ、ボクは。

一体何が怖かったんだろう?

五階の踊り場、ハダシの足から煙が出そうな勢いで曲がって。ぐき、ってイヤな感じて足首が内側に曲がる。
「うわっ?」
何度もやった事がある、けど、何もこんな所で。痛みに身を縮めてそのまま数段転がり落ち、走るより速いんじゃないか、なんて。

「最低・・」
ずきずき痛む足首抱えて丸くなって。痛みは真っ黒に蠢いて僕を引きずり込む。脈動に合わせて真っ赤な稲妻が時折閃いて、足首を中心に殻のように僕を包んで外界を遮断する、なんちゃって。大げさだよね、でも。
「お兄ちゃん・・太一さんっ・・」
情けなくて痛くて涙まで出てきたから、もっと情けなくなる呪文をかける。世の中最悪な事ばっか、何も闇なんか呼ばなくったって。
「・・一乗寺賢のバカヤロー!」

あーあ、近所迷惑、ホントのバカが誰かなんて、そんな事言うまでもない、なんとか壁まで這いずって、片足で立ち上がるけど、すぐ根性なくなっちゃってずるずる壁を背に座り込む。洟をすする音が響き渡る。帰って、湿布してテーピングして。月曜から練習に出なくていい、なんて訳にはいかないよね。泣いててもどうしようもない、まずは目を開ける事から、三階分の階段が僕を待ってる。一二の三で、目を開けて。見憶えのある靴が灰色の細いズボンの脚を乗せて、いつゲート開けちゃったんだろう、思いが具現化する世界。まさか脚だけなんてこと。

よかった、手もある。無言で掴まって立ち上がって、脇の下にきれいに納まる白いシャツの下の暖かい薄い肩。片方が脚引きずってるってのに、笑っちゃうぐらい息ぴったりでエレベーターの前で止まって、そうか、階段半階分でよかったんだ、なんてね。やっぱ頭どうかしてたな。どういう訳だか、施工後十年弱のボロエレベーターちゃんはご丁寧に三階、二階と、いちいち止まって。

「何だよ、これ。」
「・・僕だよ。」
顔を見ようにも、髪が被さってて、見えやしない。
「なんだって?」
ようやく一階についた、トロいんだよ、このエレベーターは。
「全部の階のボタン押したんだよ。」
抑揚のない声。
「あまり・・いい作戦とは言えないんじゃないかな。」
エレベーターが開いて、乗り込む。たった二階分だってのに、気まずいのも手伝ってかやたらに時間がかかる。一乗寺がハンカチを差し出すんで、受け取って顔拭いて。
「ティッシュ持ってない?」
それも魔法みたいにすっと出てきて、僕は照れ隠しみたいに盛大に洟をかむ。エレベーターを出て、点々と落ちてるピンク(ピンクだよ、それもパールのね!)のミュールを拾って、鍵の架かってないドア開けて。
「はあ。」
どさっと玄関に倒れ込む。


「もう少しだから。がんばれよ。」
お姫さまだっこでもしかねない勢いの一乗寺の指示に、ため息つきながら従う。ベッドに寝転んで救急箱の位置教えて。
「痛っ!」
ひんやりした手、ホントは気持ちいいんだけど。
「テーピング、いい加減だから。明日ちゃんと医者に。」
「日曜だよ、明日は。」
だから君を連れてきたんじゃないか、なんて言える筈もなく。
「なんであんな所で・・」
同時に妙な沈黙を破ろうと、それからお約束の譲り合い。
「追い掛けてくると思った?」
「ちが・・あれは。」
「撒こうとしたんだ?」
その二つは同じ事なのに頷いてるし。
「エレベーター間に合わなかったら、普通は階段使うよ?」
「じゃあ、君だったら?」
悔しそう?ちょっと乱暴に、最後のテープを貼り終えて。
「ボクなら、九階か十階の階段で様子を見るなあ。」
一乗寺は、ポカンと口を開けて、それがとにかく可愛かったものだからボクは笑ってしまって、それがまたお気に召さないらしくて。

「ほぼ成功してたじゃないか、現に君は僕に気が付かなかったっ。」
「まあ、そうだけど。」
「あんなサンダルじゃ、さぞかし歩きにくかっただろうね。」
なるほどね、そう来たか。
「あれはサンダルじゃないよ、ミュール。」
「どっちでも同じだろ。」
ホント、一乗寺ってムキになるよね、素直な時は素直なんだけど。なんだかおかしくて、だってボク達はさっきまでケンカというか。
「まあね。」
ボクが笑ってるんで軽くあしらわれたと思ったのか、一乗寺が言い募る。
「ピンク色だったよな。」
色なんかどうでも、って思うかも知れないけど、どういう訳だかコレは効いた。パールって言われたら再起不能だったかもしれない。
「あはは、ごめんね〜、若造りな母親で。」
「あ。そういうつもりじゃ・・。」
ボクの顔になんか付いてたらしくて、急にしおらしく黙り込む。
ばたん、救急箱を閉める音。
「じゃあ、僕はこれで。」

一乗寺が立ち上がる。いつも少し猫背ぎみな彼だけど、こういう時はすごく姿勢がよくて、凛として見える。ボクは見惚れると同時に、せいせいしたとでも言われてるようで、少し腹が立ったりもした。それでいつも困らせてやりたくなって。そうじゃない、そんな偉そうなもんじゃない。ボクは根性がなくてこわがりなだけなんだ。最悪を経験しておけばもう怖くなくなるかもなんて、痛む歯に舌突っ込んで普段の痛みを軽くしようとするみたいに、痛みの不意打ちなんてものがないように。一乗寺が優しければ、一体どこまでその優しさは続くのか、それがなくなればどんな気持ちになるのか。何度でも試したくなる、その度にこれはまだ最悪じゃないからって。どうしても安心なんかできなくて。それで、こうなった。どうなんだろう、これって最悪?まだ足りない?そうじゃない、まだ期待してる?早速次の作戦考えてるボクって一体。

「行かないでよ。」
捻挫なんか何回も、だからわかってるんだけど、痛いものは痛い。今夜は眠れそうにないだろう。
「大丈夫だよ、走って帰るから。」
昔、やったじゃないか、と一乗寺が笑う。
「君の事なんて心配してない。とにかく行かないで。」
「高石、足・・そんなに痛むのか?」
一乗寺の心配そうな声。
「痛いよっ!でも。こんなの・・ただの・・どうでもいいよっ!」
「だって君・・」
泣いてるじゃないか、って続くんだったんだろう、つまんない所で気を使うんだ。
「今だけでいいから。行かないでよ。」
しゃくり上げながら僕は繰り返す。気持ちが昂ぶってるせいか、痛みが頭の中で暴れ回って、出ていく先は両目しかみつからないみたいだ。
「・・イヤだ。」
「なんでだよ!」
別に泣き落とそうっていうんじゃない、そんな作戦じゃない、作戦なんかとっくに放棄してる。カッコ悪くて死にそう、でもそれ以上に。
「今だけだなんて言うけど。同じことの繰り返しじゃないか。」
「一乗寺・・」
1m程の距離なのに、もどかしい、触れたい、抱き締めたい、でもそれでも、きっと分かってなんかもらえない。
「もう、君に振り回されるのは・・」
「こんなに頼んでるのにっ!」
最低、怒鳴ってるよ、ホント。
「どうしたんだ、高石?」
「今だけってのがイヤ?ずっとって言ったらそうしてくれるの?そんなの無理でしょ、だったら今だけって言うしかないじゃないか!」
もう限界だ、ティッシュの箱引き寄せて三枚連続でひっこ抜く。あー痛い。喉まで痛くなってきた。一乗寺は呆れたかして、黙ってる。ティッシュのせいで顔なんか見えないけど。

続け様に洟をかむ音が響き渡って、カッコ悪過ぎ。一息ついたら一乗寺が次のティッシユを渡してくれたんで、それで顔を拭く。鼻真っ赤でティッシュのカスが一杯ついてるだろうな、なんて、もういいんだ、何だってさ。
「言ってみればいいじゃないか。例えダメだったとしても。」
一乗寺の穏やかな声。
「僕だって、意地を張って皆を拒んでた時期があった。でも、それで良い事なんか一つもなかっただろ。」
「言ったじゃない、今。」
洟のかみ過ぎで今度は鼻が痛い。
「言ったけど、ダメだったじゃない。」
ダメっていう言葉に反応しちゃってまた涙が湧いてくる。
「僕はまだ。ダメだなんて、言ってないよ。」
・・しまった、ティッシュ最後の一枚だ。













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