春の道




6







ボクは、薄い靄の中を歩いていた。裸足で柔らかな草を踏みしめている。ちょっと離れたところに、何か黒っぽい塊が見える。わかってる。これ、こないだの夢の続き。壁に叩きつけられて、それで魔法が解ける蛙。そのためには思いつく限りの憎まれ口を叩いて、お姫様を怒らせるんだ。なのに今、仰向けの蛙は柔らかな腹を見せて、ピクリとも動かない。ボクが踏ん付けちゃったんだっけ。半開きの口から赤い舌がペロって覗いてる。そっと掴んで持ち上げてみたら、蛙は意外とずっしり重くて、で、ぐんにゃりしていた。ボクは何故だか、その小さくて赤い舌を引っ込めてやりたくなった。指先で舌を突いてみても、何の反応もなかった。相変わらず、だらりと飛び出ている小さな舌。だから、そこでボクは、自分でも驚く行動に打って出た。どろんと濁った瞳を間近に見る。ひんやりとして湿った感触。皮膚の細かな皺までが見て取れる距離まで。



あのねえ、いくら夢って不条理な物だからって、何してんの、ボク。『壁に叩きつける』が正解だってわかっているのに。手の中に納まる大きさの蛙のものとは思えないような、赤くてぬめった舌。仄かに温かな舌が―――。



*********




「?!」

叫びだしそうになって気が付いた。ボクの部屋の中、常夜灯が見慣れた部屋の中の様子をぼんやりと映し出す。そっと溜息を吐いた。夜中にふと目覚めて不安なときって、無性に心細くなったりするものなんだ。ボクは隣を見る。ベッドの横に敷かれた布団。ぼんやりと見える布団の膨らみ。おかしな夢の片鱗で、ボクは一瞬だけ現実感が希薄になる。居る筈の人がそこに居ない。掛け布団を捲ると、そこはもぬけの殻だった。ボクは回らない頭を必死で働かせてみたりした。昼間の出来事が、ふと胸をよぎる。ボクは、慌てて起き上がって彼の名前を呼んだ。返事は無い。果てしなく静寂。今って何時だろう?反射的に机の上の時計を振り返ると、2時を回ってた。こんな時間にどこへ……。多分、キッチンで水でも飲んでるんだ。じゃなかったら、ベランダで夜風に当たってるんだろう。床に足を着いて立ち上がったはいいけど、布団に足を取られそうになった。何しろ狭い部屋の床一杯に敷かれた布団。まだ目覚めきってない体、滑らないように細心の注意を払って、ドアのところまで辿り着こうと躍起になる。ちょうどその時。

「高石?」

ボクの部屋のドアは細く開けられて、いささか間延びしたように聞こえる声が。ドアの隙間から漏れる細い明かり。明りの幅は次の瞬間には大きく広がる。ボクは、布団を踏んづけないように、ちょうど大きく足を踏み出したポーズで固まったまま、ドアのところに突っ立ってる一乗寺くんと、暫し向き合っている格好になった。冷静になって考えてみれば、何故空っぽの布団を見てあんなに慌てたのか自分でも不思議だった。ボクがうんともすんとも答えずに固まったままなんで、心配したのかどうか、一乗寺くんが駆け寄ってくる。

「どうしたんだ?」
「なんでもない……」

自分でも吃驚するくらい、平坦な声で答えていた。

「ベッドから落ちたのか」
「ちっ!違うよ!!」

慌てて否定する。布団の上、奇妙なこんな格好見られたら、怪しさ爆発だって自分でも。だからって、君が居なくなっちゃったかと思って、軽くパニック起こしながら探すとこだったなんて、口が裂けたって言わない。というか言えない。自分でも、なんなんだろうこの性格って、時々思う。こういう事言ったからって別に……負けたりする訳じゃないのに。ボクは居住まいを正してからベッドの上に腰を下ろすと、一乗寺くんを恨みがましく見上げた。なるべく責める口調にならないように、注意しながら尋ねる。

「ねえ……こんな時間にどうしたの?眠れないの?」
「君だって起きてる」
「まあね」

言葉が続かない。なんなの、この噛み合わない会話。『眠れないの?』って聞かれたら、普通は『うん、寝る前に珈琲飲み過ぎちゃったみたい』とか『夜更かしする癖って、なかなか抜けないんだよね』とか答えるもんじゃない?一乗寺くんは布団の傍らに膝を付いて、掛け布団を直す仕草。ふと手の動きを止めると、突然ボクを見上げる。

「あっ……トイレ?」
「違うってば!いいからもう寝なよ!!」

小さい子じゃあるまいし、そうそう夜中にトイレに起きたりするもんか。しんと静まり返った夜のこんな時間に、ボクはつい声を荒げてしまう。そそくさと布団に潜り込む一乗寺くんを確認してから、ボクもベッドに横になった。再び眠りに入る為の準備を整えようと、目を瞑ってじっとする。しばらくは、もぞもぞと身じろぎする衣擦れの音だけが、薄暗がりの中でのお互いの距離を図る手段になる。喋らないでいるのが、ほんの少し苦痛に思えた。どうも完全に目が冴えちゃって、暫く寝付けそうにないみたい。目を開けて、横を見る。そしたら、なんだか胸を突かれるような妙な気分になった。少し迷って、布団の方へ声を掛けた。

「壁あんまり厚くないんだ。だから夜は静かにね」
「……ごめん」

やっぱり一乗寺くんも眠れずにいたんだろう。すぐに布団に遮られたくぐもった囁き声が返ってくる。

「でもよく考えてみたら、大きな声を出したのは高石の方だよ?」
「……はぁ?!」

ボクは思わず起き上がって、傍らの布団の方に向き直った。布団から顔を覗かせて、一乗寺くんは一言一言小さい子に言い聞かせるみたいに囁いた。

「静・か・に」

たしなめる口調で言われちゃって、言い返したい事はそれこそ山のようにあるけれど、ともかくボクは口を噤んだ。勢い良くベッドに倒れこんで、上掛け布団をぐっと上まで引き上げて……。こんなような遣り取りが、遠い昔にもあったかもしれないなあって、そんな気がした。そしてボクは唐突に、妙に胸塞がれるような奇妙な感覚の訳を、幼い頃のあの頃の自分を、ありありと思い出した。



空っぽの布団が意味する事。今では一人が当たり前なのだけれど、ボクは小さい頃は一人では眠れなかった。二つ小さな枕が並んで、お兄ちゃんと一緒の毛布に潜る。寝ちゃうのがもったいないくらい、毎晩楽しくてしょうがなかった。他愛ないお喋り、くすくす笑い。たまには喧嘩も。そんなときは背中を向け合って眠ったっけ。それなのに。今まで当たり前のように隣にあった、あるはずのものがなくなる。ある日を境に、それがなくなっちゃうんだ。ぽっかりと心に穴が開いたような喪失感。常夜灯の明りに照らされた一乗寺くんの横顔が、妙に青ざめて見えて、なんでだろう?ボクの心の中の何かが刺激されたみたいだった。物悲しい気持ち、泣きたいようなやるせないような。それを抱え切れなくて、ボクは必死に意識を別の方に向けようと努力した。どうしよう?何か……全然脈絡の無い、突拍子も無いような何か。頭の中はフル回転。あー、そうだ!さっきの夢。



「…………。」

蛙とのキス。忘れかけてたぷにぷにの感触を思い出しちゃって、ボクは途端にブルーになる。夢って不条理なもの、だから忘れちゃえばいいのに。なのにボクは、いつまでもあの夢を引き摺っちゃってる。正解を間違えたよりも何よりも、正解に辿り着く前にボクが蛙の可能性を奪っちゃったんだっけ。ていうか、何を真剣に夢の暗示するものを探っちゃってるんだろう、ボクは。眠らなくちゃって焦れば焦るほど、頭は勝手にぐるぐるとくだらない夢の解析を始めるし、胸の奥深く仕舞っておきたい名称しがたい感情さえも生々しく蘇ってくるしで、明け方になって漸く睡魔が襲ってきた時には、それこそこのまま一日中眠りに付いていたいと、ボクは強く願った。







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