天使も踏むをおそれるところ





3


『僕はまた夢中遊行している』



ボクは七つだ。腕に縞模様の卵を抱えてる。

『早くかえらないかな?』
ボクは不安だ。パタモンは誰より進化が遅かった。この卵もなかなか孵らない。もうひとつの卵は随分早く孵ったんじゃなかったっけ?ボクには何が足りないんだろう、パタモンが好きって事じゃ絶対負けないのに。卵を振ってみる。教えられた通りに何度もなでてみる。昨日より冷たくなったような気がする。
『どうして?』
ボクの何がいけないんだろう?
『想いは叶うのよ、信じていれば、ね』
ボクより少し背の高い女の子が笑いかける。どうしたら信じられるの?ボクには輝きなんてないんだよ、もしそんなものがあれば覗いてみたいよ、ホントに子供の心には夢や希望が一杯詰まってるの?
『大丈夫』
今度は知らない子だ。
『僕達、一杯卵を孵したじゃないか』
違うよ、それはキミの力、キミだけの力なんじゃないの?一体ボクに何が欠けているんだろう?どうして?どうしてこの子なの、ボクじゃなくて。
『返してよ、ボク達の紋章を!キミが全部使っちゃったんだよ!泥棒!』
その子はボクより大きい。でもそんな事はどうだっていい。ボクは拳銃だって怖くないんだから。口籠もって目を伏せるその子にボクは続ける。
『ボクにはあれしかなかったのに』
喉を狙って頭をぶつける。揺らいだ上半身を押さえつけて、白いシャツの衿を掴んで引っ張る。
『全部キミのせいだ!』
ボクの希望が詰まった卵はどこかへ転がって行ってしまった。それだってこの子のせいなんだ。こんなのはみっともない八つ当りでしかない。自分がうまくいってないからって。何が?自由研究?ボクは思わず吹き出してしまう。訝しげな輪郭がぼやけるまで顔を近付けて一言ずつゆっくりと、幼稚園位の小さな子に言うみたいに。
『キミは--ボクの--大事な--自由研究に--ビールを--零したんだ』
訳がわからない、と言いたげに首を振る小さな子供の腕を掴んで宙吊りになるまで引っ張り上げる。悲鳴を上げるのを書類の散らばる床に押さえ付けて、泣き声が誰かに聞こえないように空いた手で口を塞ぐ。
『おしおきだよ』
関節なんかないみたいな細い柔らかい腕が手の中でしなう。足の下で小さな体が強張って一瞬の強い抵抗の後、ぼきん、とイヤな音を立ててその子の腕が有り得ない方向に曲がる。そうか、関節はなくても骨はあるんだ、なんてぼんやりと、待てよ、ウソ泣きかもしれない、こいつはただ零すだけじゃなくて面白がって笑いながら。そうだよ、鞭で打ったりなんかして。顔を覆っている手を退ける。痛みで青ざめた病的な皮膚の色、何に染まっているかを自ずと物語る黒い瞳が恐怖で見開かれて。乗り上げた腰のあたりを愉悦が駆け上がる。
『自分のしたこと、わかってる?』
揺すり上げると、苦しげな息の下、ごめんなさい、と、かすれた声。何をしてるんだろう、この子の腕を、ボクは。
我に返って飛び起きて電話を引っ掴む。
『911?光が丘団地二棟の石田です、息子が事故で、ええ、腕を』
電話の向こうではがやがや誰かが喋っていて、こっちの言うことが通っているのやら。
『そうです、その。机から落ちまして。三歳です・・』
一通り告げて受話器を置く。こんな言い訳通るわけがない、第一タケルが俺がやったと話すに決まってるじゃないか。それでなくとも奈津子は今気が立っていて。怯えているのだろうか、体を丸めて震えている息子を抱き上げる。
『大好きだよ、愛しているんだ。お前に良い子になって欲しいだけなんだよ』
青白い頬に、黒い髪に唇を寄せる。
『子供は・・していい事と悪い事の区別がつかない、そうだろ?お前はただ遊んでいただけなんだろうけど』
ドンドンとドアを叩く音。早いな、さすがアメリカだなどと妙な所で感心しながら救急隊員を迎え入れる為にドアを開けようと。

『いいの?見られちゃうよ』
鏡の中にいた子だ。今にも動き出しそうな卵を抱えて。
『もうすぐ生まれる。この中に何が入ってるのか見られちゃってもいいの?』
呻き声が啜り泣きに変わり、ドアを叩く音、ボクの破滅を呼び込む音が。


「タケル!起きなさい、今日はクラブなんでしょ!私はもう出るからね!」
東向きの部屋なんて最低だよ。ぬるぬるするのは汗だけではなく。
「わかってる・・起きたから」
慌ただしく玄関のドアが閉まる音。
「まいったなあ」
司書のお姉さんは正しいのかもしれない。
机の上のカレンダーに目をやる。八月一日は・・明後日だ。
「行くのやめようかな」
ダラダラベッドから下りて、シャワーのついでに洗濯。今日はすっごく暑そうだから母さんが帰ってくるまでに取り込めるだろう。お兄ちゃん、ボク、自分で洗濯だって出来るようになったんだよ、なんちゃって。
「・・はあ」
自由研究の事でも考えていよう。何かキレイなもの、キレイな事を考えよう。熱気の籠もった脱衣所、体育館の暑さを思って憂欝になる。シャワーを浴びても全然すっきりなんかしない。それにしても、どうして触った事なんかない髪の感触なんて。











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